2016年7月にブラジルに帰国した際に訪れた、サンパウロ・東洋人街「リベルダージ」。
ここは長い間「日本人街」と言われていたけれど、中国人や韓国人の増加により、今では「東洋人街」と呼ばれるようになりました。
他のリベルダージの記事はこちら↓
【リベルダージ①】ルーツの旅|日本から一番遠い日本で
【リベルダージ②】ルーツの旅|ブラジル福島県人会にて
リベルダージに来たら絶対に訪れたいと思っていた場所の一つです!
それは、ブラジル日本移民史料館。
ブラジル日本移民史料館(Museu histórico da imigração Japonesa no Brasil)は、移民70周年祭の記念事業として1978年6月18日にオープン。当時の皇太子・明仁親王殿下(今上天皇)と美智子妃殿下、ガイゼル大統領(故人)によって開館されました。ブラジルに渡った日本移民の記録を保存し、後世にその歴史を伝えながら、ブラジル社会に普及するという使命のもと、文協が運営管理しています。(ブラジル日本移民史料館より引用)
ここの史料館は、
・ブラジルと日本の二国が国交を樹立した時
・コーヒー農園での労働力としての日本人移民の受け入れ
・移民当初の生活の様子
・戦後の新移民
・近年の日系人の活躍 など
移民の歴史と文化が知れる場所となっています。
今回の訪問の目的でもある、「ルーツの旅」に相応しい場所の一つ。
自分のルーツを探りたい、そんな想いがあって今回このブラジル日本移民史料館に来ました。自分のルーツの日本人の祖父母がどんな思いで日本を出て、どんな環境下でブラジルに渡り、どんな生活を送ったのか。を垣間見るぴったりな施設でした。
ルーツの旅を語る上で避けて通れない「移民」のはなしを少し。
かつて開国後の日本は労働力が有り余っている状態でした。そのため海外にどんどん日本人を送り込んだそうです。最初に日本人が送られたのはハワイ。その後はアメリカ本土やブラジル、ペルーなどの南米諸国へと移動していきました。
1908年に初めて日本からの移民船「笠戸丸 KASATOMARU」が神戸港を出航してから、今までの約110年間で13万人の日本人がブラジルへ移民したと言われています。
戦前貧しかった日本は国策で海外へ日本人を送り出しました。外国に行けば今よりいい生活ができる と。
ブラジルは「金のなる木(コーヒー)がある」という謳い文句だったそうです。
こちらのポスターはその当時の移民募集ポスターです。移民の定住とより多数の労働力を図るためにも「一家=家族単位」での移民が条件でした。
よりいい環境、よりいい生活を夢見て、「金のなる木」を信じ、ブラジルへ渡った日本人たちは過酷な現実を目の当たりにします。慣れない異国での生活、過酷な労働、低い賃金、病気など、厳しい環境だったそうです。……
こちらの写真の小屋は、コーヒーが実って、収入ができるまでの数年の間の仮住まいを再現したものです。日本から来て4年後の、両親と子供3人家族の想定で復元した小屋だそうです。
この史料館には、そういった当時の日本人の様子が分かる数多くの写真資料や、生活を再現した展示などがされています。
時代は変わり、第2次世界大戦が勃発し、敵国だったブラジルは日本との国交を断絶します。
日本からの移民は敵となり、日本人は土地や財産などを没収されることもあったそうです…終戦直後には日本の負けを受け入れた「負け組」と敗戦を信じたくない「勝ち組」に分かれ、対立が起こりました。日本が戦争に勝ったら日本へ帰る!と決めていた日本人も、日本の悲惨な現状を知った多くの人がここでブラジル永住を固く決意したと言われています。
それでも日本人特有の勤勉さと団結力でこの過酷な環境を乗り越えていきました。農業に従事していた日本人・日系人は次第に街へと出るようになり、その後日本人特有の勤勉さが実を結び、農業だけでなく、文化、政治、経済など多くの分野で今のブラジル社会に欠かせない存在になりました。
現在ブラジルでは「Japonês garantido(ジャポネィス ガランチード)」という言葉があります。「日本人なら信頼できる、間違いない!」的な意味です。それほどブラジル国内では、日本人・日系人のイメージは「教育水準が高く、勤勉で、信用ができる」と。
なんでここまで「ルーツ」にこだわるのか、このリベルダージに来てずっと考えていたような気がします。
大学でのゼミの卒業発表も「移民」について発表をしていますし、自分がイタリア系日系ブラジル人だからこのテーマに興味を持ったのか?と自問自答を繰り返していた。私の周りでハーフや日系人がたくさんいるけれど、みんながみんな決してこのテーマについて考えて行動をしている訳ではない。
それでリベルダージに来て考えながら色々思い出していた。
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大学生2年生の時にブラジルに一時帰国をした時の話。
スーパーで買い物していた時、日系人のおばあちゃんに話しかけられました。
「君も日系人でしょ?(ブラジルにいるとすぐ日系人ってわかる外見のようで…)どこに住んでるの?」
「普段は日本です。今家族に会いにブラジル来ているんです。」
「あらー!そうなのー!?(とても嬉しそう)学生?」
「今大学生です」
「日本の大学に通っているの!?すごい!!!私たちの孫にあたる君のような子が日本の大学に通えるようになるなんて・・・とても感慨深い・・・」
そういって目はウルウルし、握手を求められました。
このおばあちゃんは日本生まれでやっぱり子供の時に両親に連れられてブラジルに渡ったよう。
「わたしはもう日本には戻れないし、戻らない。心をブラジルにしたんだ!」と明るく話してくれました。「でもずっと日本を想っているのよ。日本は綺麗な思い出しかないから綺麗なまま残したいの。だから日本には行かないんだ」って笑って話してくれました。
……「心をブラジルにした」
このおばあちゃんの言葉がずっと引っかかると同時に、どこか矛盾をしているようにも聞こえました。でもこの引っ掛かりがあったからこそ、日本に帰ったら移民の勉強をしようって決めました。このおばあちゃんからしたら私の何が特別(?)で、このおばあちゃんの言葉の背景がなんなのか。もっと知りたいと純粋に思えました。
大学2年生、私自身も自分のこと(アイデンティティ)をあまり説明できないでいましたし、知ることで自分のアイデンティティにも繋がる気がしました。
そしてもう一つこの時に疑問に思ったこと。
なぜこんなにも日本は日本人を外へ送り出しているのに、日本人はその事実をあまり知らないのか。
日系人という言葉を聞いてもピンとこない人も多いと思う。ブラジルだけではなく、ハワイやペルーになぜ日系人がいるのか。
なぜこんなにも日本に今日系ブラジル人がいるのか、無視しようとしても無視できないこの歴史をあまり学校でも勉強しなかったような気がします。
移民史料館は一万枚の写真を保管しているという点や模型や当時の生活を再現していてビジュアル的にもとても興味深いし、様々な方々の証言を下にわかりやすくまとまっています。
そして、写真の数や展示してある情報量もすごいけれど、私が感動したことが一つ。
それは、自分の先祖がいつ日本を出航し、いつブラジルに到着したのか、どの船でどの港に到着したのかなどが検索できる機械が置いてあるのです!
実はインターネットからでもこの検索ができるっていうのを後から知ったのですが、初めてそのシステムを史料館で見た時にはテンションが上がりました!そしてやっぱり祖父の名前を入れると出てきました。これには感動しました…
こちらからも検索できます!
ここを訪れて、今一度強く感じたこと。
慣れ親しんだ日本という地を出て、長い危険な船旅を経て、異国の地へ行った祖先。そこで確固たる地位を確立した日本人、日系人を本当に誇りに思います。約110年の月日を経て、今改めて「移民」として日本にやってきている子孫たち。昔の日本人たちに恥じない生き方をしないといけないと思いますし、日本で活躍できるブラジル人がもっと増えていったらいいなと心から思います。私たちのルーツはとても強くたくましい祖先の血が流れています。絶対にその努力を無駄にすべきでないと思う!
背筋がスーッと伸びる時間でした。