お待たせいたしました!
今回のHAKUの記事はスペシャルな内容です。
念願だった、5人制サッカーパラリンピック日本代表 佐々木ロベルト泉選手のインタビューが叶いました。
一年後に東京パラリンピックを控え、国内外と忙しく飛び回るロベルト選手ですが、今回快くこのインタビューを引き受けてくれました!
前回の記事でも少し触れましたが、私が初めてブラインドサッカーを観戦したのは2016年リオパラリンピックでした。
あたかも全て見えているかのようなプレーに大興奮したんです。
(前回の記事で熱く語っています。RIO TO TOKYO ① リオ2016総集編・パラリンピックのはなし)
そもそも5人制サッカーとは・・?
別名、ブラインドサッカーと呼ばれる競技です。
ブラインドサッカーなら聞いたことがあるって方もいるかもしれません。
名前の通り、視覚に障害のある選手を対象に行う、5人制のサッカーのことです。
コートはフットサルコート程の大きさで、1チームは4人のフィールドプレーヤーに1人のゴールキーパーで構成されています。ゴールキーパーだけが視覚に障害のない(または弱視)選手です。
また、個々の見え方に有利不利を防ぐために、フィールドプレーヤーの4人は目隠しをしないといけません。
わかりやすい動画が東京2020公式ページに上がっているので、もっと詳しく知りたいという方はぜひ見てみてください!
今回インタビューをさせていただいた佐々木ロベルト泉選手はこの5人制サッカー日本代表選手です。
2020年、東京で開かれる東京2020で日の丸を背負って戦う予定です。
佐々木ロベルト泉選手 41歳 (2019年11月時点)
パペレシアル品川 所属
ブラジル・サンパウロ・ゾーナ・ノルテ(北区)出身
5人制サッカー日本代表選手、夫で、2児の父
1997年2月 18歳の時に来日
ジュリアナ:いつから日本に来られたのですか?
ロベルト選手:16歳の時です。きっかけは、1994年に父をブラジルで亡くして。僕はまだその時16歳のやんちゃばかりする息子で、家計を助けるためにも仕事をしなきゃと思って来日をしました。
一人で来日して工場などの仕事をして一生懸命働きました。
お金を稼いでいずれはブラジルに帰る予定だったんだけど、徐々に日本の生活にも慣れて日本に住むのもいいなぁなんて..心情にも少しずつ変化がありました。
そんな中、
2006年11月21日 28歳の時
仕事に向かう途中、茨城県牛久市で交通事故に遭う。
ジュリアナ:日本に来てから10年経った頃だったんですね。
ロベルト選手:ちょうどこの日も工場の仕事に向かう途中で。車同士の正面衝突事故でした。車には僕一人で。
まさに、生と死を彷徨いました。16日間の昏睡状態だったみたいです。
約2週間の昏睡状態から起きた時、目の前が真っ暗になっていて、しばらく意識が戻ってもじーっと静かにしていたんです。
そうしたら妹の声が聞こえてきて、尋ねたんです。「なんで真っ暗なの?」と。この時まだ人口呼吸器もつけていて、口を開くのも大変な時でした。
そこで告げられました、「あなたは両目を失明したの」と。
「もう一生見えることがない」って。
・・・
しばらく頭が真っ白になりました。
今まで見えていた世界が突然真っ暗になる。
しばらくいろんな人の顔や景色が頭の中でスライドのように流れました。
家族、友人、今まで経験して見てきた光景、最後に旅行した沖縄の景色・・・。涙が溢れました。
でもその5分後に、不思議と「ここで挫けてたまるか!命があるだけでも僕に残された何かがある。きっといいことがある。」と思えたんです。
この時の事故で視覚だけではなく、心臓の手術も受けました。
本来6ヶ月間入院しなければいけなかったんですが、おかげさまで回復も順調で61日間の入院で済みました。
事故の後は約5ヶ月間生活訓練を受けたのちに、富士山に登りました!
ジュリアナ:え!富士山に!?登ったの?
ロベルト選手:はい、、心臓の手術も受けていたので、医者にはこっ酷く叱られましたが(笑)
ジュリアナ:それは怒られそうですね・・(笑)私、静岡県富士市出身なのに、登ったことないんです。登頂まで登ったんですか?
ロベルト選手:もちろんです。山梨からのルートで9時間かけて登頂まで行きました。
その時日本に留学しに来ていたいとこや友人何人かで登ったんですけど、登っている途中、友達夫婦がケンカし始めたり・・(笑)しまいには、登山の過酷さに心を折れかけたみんなを僕が励ましながら登りましたよ(笑)
手助け必要なのは誰!?と突っ込みを入れたくなる富士登山でしたよ(笑)
ジュリアナ:(笑)でもなんでそもそも富士山を登ろうと思ったんですか?
ロベルト選手:富士登山って目が見える人にだって大変なチャレンジだと思うんですけど、その日本一高い山を登ることで今後先どんなに辛い山が現れても、それを乗り越えられる勇気が持てると思ったんです。
七転び八起きだから。
これは僕が好きな言葉で、自分の人生にぴったり当てはまる言葉だと思うんです。転んだらまた立ち上がればいい。富士山を登っている最中もそう確信しながら登りました。
ジュリアナ:ブもともとサッカーが得意でブラインドサッカーをやろうと思ったんですか?
ロベルト選手:いいえ。事故から3年後の2009年に筑波技術大学に入学をしたきっかけでブラインドサッカーに出会ったんです。
ジュリアナ:事故後に筑波技術大学に入学したんですか?
ロベルト選手:そうそう、ちょっと脱線しちゃうけど、目が見えなくなって、自分の身体のことを知りたいと思ったんです。病院に行った時に医者から言われる難しい医学用語が理解できなくて、もっと自分のことを知りたいなぁと思ったのがきっかけで。
ジュリアナ:なるほど。その筑波技術大学にブラインドサッカーのチームがあったということですか?
ロベルト選手:そうです。昔から、バレーボール・ソフトボール・サッカー・スノーボード・剣道・モータースポーツなどをやってきていて、もともとスポーツは大好きで!ブラインドサッカーも今まで通り、自然な形ではじめました。
2009年にブラインドサッカーを初めて、1年間プレーをして、その後私情により一時離れてしまいました。
ですが、2012年に再開しそこからはずっとプレーしています。
ジュリアナ:食事制限や筋トレとかもストイックにやっていると思いますが、再開してからプロになろうと思ったんですか?プロ意識みたいなのが芽生えたきっかけってありますか?
ロベルト選手:プロになろうと決めたわけではなくて、じつはちょっと本気になった出来事があったんです。当時Avanzare筑波(ブラインドサッカーチーム)の一員としてプレーしていて、とある大会の準決勝で負けてしまって。その帰り際、相手チームにバカにされたんです。応援してくれていたサポーターたちの想いなども知っていましたし、絶対負けたくない!という闘争心がそこで芽生えました。
闘争心から「もっと上手くなりたい!勝ちたい!」という気持ちが合わさって、それがモチベーションに変わりました。
その準決勝に負けた1年後の2013年に日本代表の話があり、帰化申請をしたのち日本代表に選出されました。今年で代表入りして6年になりますね。
ジュリアナ:それで現在日の丸を背負って戦っているんですね。普段はどのようなチームでプレーしているんですか?
ロベルト選手:今はパペレシアル品川という品川を拠点とするチームでプレーしています!まだ新しいチームで、これから色々やっていかないと行けないけど。東京に拠点を置いているというのもあって、たくさんの方にもブラインドサッカーを見てもらいたいですね!
ジュリアナ:ぜひ私も観に行きたいです。
来年東京パラリンピックも控えている中、ブラインドサッカーもどんどん盛り上がるといいですよね!
(後編に続く。)
後編では、チーム日本の一員として東京パラリンピックにかける想いや、ブラジルや外国に行って感じる日本のパラスポーツに欠けている部分など、踏み込んだ話をしています。
そして私が一番したかった質問、ブラインドサッカー(障害者スポーツ全般)を観て視聴者や観戦者は「面白い」と言っていいのか。などなどのたくさんの質問に答えてくれました。
【記事修正】
筑波技術大学だった箇所が、筑波大学になっておりました。訂正しお詫びを申し上げます。(2020年1月29日)